平成9年2月10日より
経済コラムマガジン




06/7/17(445号)
宗教と哲学への入門

  • 日本の経済学界の堕落
    経済学に関連して宗教とか哲学といった、これまで当コラムが取扱ったことがない分野に今週から少し言及する。もちろん筆者はこのような分野の専門家ではなく、これらに関して極わずかな知識しか持ち合わせていない。したがって所々で間違ったことを述べるかもしれないが、その場合にはご容赦願いたい。筆者は今日の日本の混乱した経済論議を見ていると、これらを理解し整理するには、どうしても宗教や哲学などといった分野まで思考を広める必要性を感じるのである。


    ただ話を進める前に、今日の経済学の流れと悲惨な現状について簡単に触れる必要がある。経済学は欧米を中心に発展し、日本の経済学はこれらをそのままそっくり輸入したものである。日本の大半の経済学者の研究の対象は、欧米で発展した経済学理論であり学説である。端的に言えば日本の経済学は、本来の経済学ではなく、「経済学」学である。また日本の現実の経済を分析したと言っても、欧米で組み立てられた理論を日本の経済の現状に無理に当てはめようしたものばかりである。

    日本の経済学者は欧米の経済理論の背景にある宗教とか哲学といったものに気が付かないか、あるいはこれらを軽視している。特にサミユエルソンなどのネオクラシカル(新古典派)が経済学の主流になって以降、経済学が数理的になり、この傾向は強まった。経済学なのか数学なのか分からなくなったのである。しかし経済を数式で表すということは、かなりの単純化と割切りが行われていることを意味する。

    さらに同時に、数式で表すために数々の前提条件が置かれている。今日の経済学ではその前提条件が当り前にように扱われ、誰もそれらを吟味しようとしない。前提条件が現実離れしていても全く気にしていないのである。もっとも前提条件を問題にすれば、これまで学んできた経済学の全体が崩壊する不安を察知しているのかもしれない。


    具体的な例の一つとして「資本」というものを取上げる。これに対しては06/7/3(第443号)「トービン税について」で紹介したジョーン・ロビンソンの指摘が参考になる。形が異なる「資本」というものの量を集計することはほとんど不可能である。1000万トンの製鉄設備、100万キロワットの発電設備、30万バーレルの石油精製設備、2,000人収容するホールと言った個別の資本を総計して、合計額を算出すると言った場合を考える。たしかに頭の中では抽象的にそれができるかもしれない。しかし現実には資本の量を合計して示すことはできない(年間1000万トンの製鉄設備はあくまでも1000万トンの製鉄設備であり、これに100万キロワットの発電設備を加えても両者の合計の資本量は表現できない)。

    しかし資本量を合計することができないとしたなら、現実の経済の世界では生産関数が成立たないことを意味する(生産関数は労働量と資本量の夫々の合計額を投入して生産額が決まるという計算式であり、客観的な資本の量というものが表現できなければ現実の経済に適応できない)。ところが驚くことに日本には生産関数というものがちゃん存在しており、日本政府は各種の経済分析や経済予測にこれを使っている。

    何と資本の量は設備投資額から減価償却費を差し引いたネットの設備投資額を過去から累計したものとされているのである。資本の量がいつのまにか、単一の単位である金額に置き換えられている。つまり資本量を集計するためにとんでもない割切りが行われているのである。こんな酷い前提条件の元で組み立てられている生産関数というものが、何の疑問もなく日本では広く使われているのである。

    極端なケース、償却年限を過ぎた生産設備の設備の資本の量はゼロ(会計学上の残存価額を考慮しなければ)ということになる。しかし日本の主要な生産設備は高度成長期に建設されたものばかりであり、遠の昔に償却年限が過ぎている。仮に追加投資がなされていても、計算上は既にほとんどがゼロに近いはずである。このように現実の世界ではほとんど意味のない生産関数というものが堂々と政府で使われ、これによって各種の経済政策の予測がなされているのだから恐ろしい話である。要するにこのような矛盾の象徴のような生産関数がでしやばっているのも、供給サイド重視というカルト経済学が花盛りだからである。

    今日の経済学は数理的に走りテクニカルになった。しかしこれらが成立するために設定されている前提条件そのものを全く考えなくなったのである。そして多数の数学者(元の数学の世界でどのような評価を受けていたのかちょっと興味はあるが)がいつの間にか経済学者になっているように、日本の経済学学界は完全に堕落している。そして経済理論の前提条件を吟味しないという状況は、その経済の学説が生まれた背景にある宗教や哲学を全く考えなくなったことに繋がっている。


  • 二分法から三分法へ
    西洋(欧米)の思考は二分法と言われている。対して日本など(東洋全体と言い切りることができるか自信がない)の思考の特徴は「あいまいさ」である。例えば西洋では「自然」と「人工」というものが対立関係にある。西洋で「自然」は征服される対象である。一方、日本では「自然」と「人工」とは必ずしも対立しない。庭園の作り方をみても、西洋では徹底的に人の手を入れ「人工」的なものを作り上げる。日本の庭園は自然をそのまま囲い込むところに特徴がある。

    また西洋では「資本」と「労働」は鋭く対立する概念である。しかし日本では必ずしも両者は対立しない。労働者が出世して社長(資本の代理人)になることも珍しいことではない。工場では、工場長も作業服を着て、工場労働者と一緒に社員食堂で食事をする。給料も新入社員と社長との間の格差は、欧米に比べずっと小さい(最近は広がっているかもしれない。特に日産自動車のように極端な格差がある会社も出てきたが、どうも日本にはなじまない。)。


    二分法の世界では対立する命題の間で葛藤が起き、やがてこれら両者の間で止揚(しよう)が起るという考えがある。正反合(せいはんごう)、つまり「正」と「反」の葛藤がやがて止揚され「合」となる。これはヘーゲルの弁証法論的発展ということになるが、この辺りで筆者の知識も怪しくなる。マルクス主義者の唯物史観では、ヘーゲルの弁証法論的展開で資本主義国家では資本と労働、あるいは資本家階級と労働者階級との対立がやがて止揚され、共産主義国家が生まれることになる。

    たしかにソ連という共産主義国家が誕生し、マルクスの予言は曲がりながらも適中したことになる。ただし共産主義革命が起るのは資本主義国家の最後の発展段階ということになっていた。ところが実際に共産化した国々はソ連や中国と言った資本主義国家としては遅れたところばかりであった。マルクス主義者は、この矛盾点に触れないようにしている。


    宗教の世界も二分法である。キリスト教とイスラム教は対立する。キリスト教とユダヤ教、あるいはイスラム教とユダヤ教もそれぞれ対立する。これら一神教の世界では、どの神を絶対者として受入れるかが死活問題である。日本のように八百万(やおよろず)の神といった「あいまいさ」は認められない。西洋ではそれぞれの神を掲げ、他国に侵略し合った。征服された方は、侵略者の神を信じるかどうか迫られる。つまり屈服して侵略者の掲げる宗教に改宗するか、あるいは迫害されながらもこれまでの神を信じることを止めないかの選択に迫られたのである。

    また西洋の「神」は常に人に幸福を与えるとは限らない。時には神は人に過酷な試練を与える。例えばカミュの「シーシュポスの神話」の神は、人に大きな石を山に押上げることを何回も強いる。一方、日本の神は常に人に恵みを与える(人に悪さをするのは貧乏神ぐらいである)。西洋と日本では「神」そのものの概念が大きく異なるのである。


    宗教に関してはもう一つの重要な二分法がある。絶対者である「神」が存在するかどうかの二分法である。有神論者は絶対者である「神」が存在すると固く信じている。一方、無神論者は、「神」は存在しない、あるいは存在しては困ると考える。

    有神論と無神論は互いに全く相容れない概念である。この対立は様々な分野で見られる。芸術や小説の世界だけでなく、進化論といった科学の分野にも及ぶ。もちろん哲学の分野でも有神論と無神論で対立がある。しかし筆者は、有神論と無神論に関しては、二分法だけで単純に割切るのは間違いではないかと考える。

    有神論者と無神論者以外に、「神はいてもいなくても良い」、あるいは「神はいるかもしれないが、時として神も間違える」と考える人がいるはずと筆者は思う。つまり「神」の存在に関しては、二分法ではなく三分法で捉えるのが適当と考えるのである。これを経済学に当てはめるなら、有神論が古典派やニュークラシカル(新古典派)であり、無神論がマルクス経済学である。そして「神はいてもいなくても良い」「神はいるかもしれないが、時として神も間違える」と考えるのがケインズ経済学である。



来週は今週号の続きである。

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06/7/10(第444号)「劣勢のケインズ」
06/7/3(第443号)「トービン税について」
06/6/26(第442号)「自由放任(レッセ-フェール)の経済」
06/6/19(第441号)「筆者の税制改正案」
06/6/12(第440号)「筆者のニート対策」
06/6/5(第439号)「美しくない話」
06/5/29(第438号)「第三セクター鉄道の危機」
06/5/22(第437号)「テレビ番組の制作現場」
06/5/15(第436号)「日銀の実態・・憶測」
06/5/8(第435号)「日銀は魔法の杖か」
06/4/24(第434号)「もう一つ勇気を」
06/4/17(第433号)「格差とマスコミ」
06/4/10(第432号)「官僚の力と限界」
06/4/3(第431号)「日経新聞のダブルスタンダード」
06/3/27(第430号)「金融政策の失敗の歴史」
06/3/20(第429号)「量的緩和解除の波紋」
06/3/13(第428号)「コンビニ弁当の話」
06/3/6(第427号)「GDPギャップのインチキ推計法」
06/2/27(第426号)「潜在GDPとGDPギャップ」
06/2/20(第425号)「労働力と経済成長」
06/2/13(第424号)「大衆社会における経済論議」
06/2/6(第423号)「皇室典範改正法案に一言」
06/1/30(第422号)「ホリエモンと政治家」
06/1/23(第421号)「改革の旗手の危機」
06/1/16(第420号)「今年の景気予想」
06/1/9(第419号)「思考停止の日本」
05/12/19(第418号)「日本人の変質」
05/12/12(第417号)「日本的経営の行く末」
05/12/5(第416号)「アメリカ人」
05/11/28(第415号)「遠ざかる豊かな社会」
05/11/21(第414号)「移民問題と市場経済」
05/11/14(第413号)「ブリエアの解放者たち」
05/11/7(第412号)「第三次小泉内閣の感想」
05/10/31(第411号)「現実経済の乗数値」
05/10/24(第410号)「公共投資に伴う誘発投資」
05/10/17(第409号)「誘発投資の拡張版」
05/10/10(第408号)「経済理論上の乗数」
05/10/3(第407号)「政治家達の沈黙」
05/9/26(第406号)「大谷氏への公開質問状」
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05/8/29(第403号)「今回の総選挙を読む」
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05/8/8(第401号)「中国経済の本当の脅威」
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05/7/25(第399号)「経済のグローバリズムの行末」
05/7/18(第398号)「経済のグローバリズムの本質」
05/7/11(第397号)「郵政法案と小泉政権の行方」
05/7/4(第396号)「経済のグローバリズムと競争の公正」
05/6/27(第395号)「日本語の研究」
05/6/20(第394号)「公的年金とセイニアーリッジ」
05/6/13(第393号)「日本国民全員がばん万歳の政策」
05/6/6(第392号)「公的年金とマクロ経済」
05/5/30(第391号)「マクロ経済政策で解決するもの」
05/5/23(第390号)「ヴァーチャルなもの(その2)」
05/5/16(第389号)「ヴァーチャルなもの(その1)」
05/5/9(第388号)「中国進出の主導者」
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04/12/13(第371号)「第一回財政研交流会」
04/12/6(第370号)「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)その3」
04/11/29(第369号)「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)その2」
04/11/22(第368号)「構造改革派の常套手段」
04/11/15(第367号)「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)その1」
04/11/8(第366号)「第二次南北戦争」
04/11/1(第365号)「妄言・虚言の正体」
04/10/25(第364号)「クライン博士を招いてのシンポジウム」
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04/8/30(第356号)「日本の「韓国化」」
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04/7/26(第354号)「自民党大敗北の要因分析」
04/7/19(第353号)「参院選で見たもの」
04/7/12(第352号)「日本のエネルギー自立政策」
04/7/5(第351号)「危うい石油の確保」
04/6/28(第350号)「テロと中東石油」
04/6/21(第349号)「対談の論点(再)」
04/6/14(第348号)「対談の論点」
04/6/7(第347号)「富の分配と公正」
04/5/31(第346号)「小泉首相訪朝の成果」
04/5/24(第345号)「日本に必要な財政赤字政策」
04/5/17(第344号)「土地売買の盲点」
04/5/10(第343号)「日本経済の体質と財政政策」
04/4/26(第342号)「凍り付くマネーサプライ」
04/4/19(第341号)「デフレ体質の日本経済」
04/4/12(第340号)「火星の土地」
04/4/5(第339号)「円高は構造的」
04/3/29(第338号)「規制緩和に飛びつく人々」
04/3/22(第337号)「矛盾の出発点」
04/3/15(第336号)「日経の貧乏神」
04/3/8(第335号)「実感なき経済成長」
04/3/1(第334号)「為替介入ではなく財政支出を」
04/2/23(第333号)「為替介入への道」
04/2/16(第332号)「為替介入資金の働き(その2)」
04/2/9(第331号)「為替介入資金の働き(その1)」
04/2/2(第330号)「為替介入政策の限界」
04/1/26(第329号)「今日の政治課題」
04/1/19(第328号)「今年の政局の課題」
04/1/12(第327号)「今年の日本の景気」
03/12/15(第326号)「日本の公的年金」
03/12/8(第325号)「足利銀行の破綻処理」
03/12/1(第324号)「日本経済を支えているもの」
03/11/24(第323号)「総選挙結果から見えるもの」
03/11/17(第322号)「総選挙結果の分析」
03/11/10(第321号)「総選挙の結果他」
03/11/3(第320号)「総選挙の予測」
03/10/27(第319号)「動態的会計による企業価値算定」
03/10/20(第318号)「道路公団、財務諸表の怪」
03/10/13(第317号)「藤井総裁解任劇」
03/10/6(第316号)「総裁選と総選挙」
03/9/29(第315号)「総裁選の総括」
03/9/22(第314号)「ドキュメンタリー総裁選」
03/9/15(第313号)「レポート総裁選・・その2」
03/9/8(第312号)「レポート総裁選」
03/9/1(第311号)「混迷の終始符」
03/8/25(第310号)「急がば回れ・・再び」
03/8/18(第309号)「自民党の総裁選に向けて」
03/8/4(第308号)「日本の実稼働率」
03/7/28(第307号)「設備投資の実態」
03/7/21(第306号)「企業経営と創造的破壊」
03/7/14(第305号)「頭が破壊されている人々」
03/7/7(第304号)「頭が混乱している構造改革派」
03/6/30(第303号)「経済の循環(その2)」
03/6/23(第302号)「経済の循環(その1)」
03/6/16(第301号)「経済政策の混乱」
03/6/9(第300号)「りそな銀行の件」
03/6/2(第299号)「規制緩和と日本経済」
03/5/26(第298号)「経済学と経営学」
03/5/19(第297号)「政府紙幣発行の認知度」
03/5/12(第296号)「滝田洋一氏への反論」
03/5/5(第295号)「政府紙幣発行政策の誤解」
03/4/21(第294号)「逆噴射の財政政策」
03/4/14(第293号)「危機管理下の経済政策」
03/4/7(第292号)「国債の管理政策」
03/3/31(第291号)「経済再生政策提言フォーラム」
03/3/24(第290号)「日本の有名経済学者達」
03/3/17(第289号)「波乱の株式市場」
03/3/10(第288号)「政府貨幣の理解」
03/3/3(第287号)「軽視される高橋是清の偉業」
03/2/24(第286号)「日本の清貧の思想」
03/2/17(第285号)「日本のデフレの原点」
03/2/10(第284号)「小泉首相の「もっと重要なこと」」
03/2/3(第283号)「スローパニック経済」
03/1/27(第282号)「所得を生むマネーサプライ」
03/1/20(第281号)「マネーサプライ政策の限界」
03/1/13(第280号)「データに基づく経済論」
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