平成9年2月10日より
経済コラムマガジン




05/12/12(417号)
日本的経営の行く末

  • 日本的経営の危機
    派遣社員やアルバイト・パートの給与は低い。また製造現場も派遣社員が増え、給与水準が低くなっている。一頃高かった3K職場の給与も急激に下がっている。これらの職業の特徴は、市場がほぼ完全競争状態であり、給与水準が需要と供給で決まる要素が強いことである。今日、筆者が主張しているように日本の実質的な失業率は20%くらいである。したがってどれだけ給与を引下げても人は集まる状況にある。

    コンビニのアルバイトの時給は、東京なら850円から1,000円、地方は600円台である。これでも応募者がいて、また35才以上はお断りというのが普通である。今日、ニートという人々が問題になっている。ある大臣は、「これは教育が間違っていたから」と大きくピントが外れた発言をしている。むしろこのような低賃金では、働く気がしないという気持ちが解る。ニートは経済問題であり、決して教育問題ではない。また労働経済白書で52万人いると言われる(実際はもっと多いと思われる。内閣府は85万人と推計している。)ニートの人々が職を探し始めたら、間違いなく派遣社員やアルバイト・パートの給与はさらに下がるはずである。


    政府の内需縮小策と規制緩和で、日頃から競争にさらされている人々は酷い目に会っている。一方、規制緩和が及ばない分野の人々は、今日の規制緩和やデフレを喜んでいる。規制緩和でタクシーの運転手は、収入が激減している。ところが一方、行政の庇護下にある大阪の市バスの運転手の平均年収は700万円である(1,000万円以上の運転手はゴロゴロしている)。同じ車を運転していても何倍もの収入の格差が生じている。


    しかし日本におけるこれらの競争的な立場に置かれている職業の給与は、規制緩和や需給のアンバランスに加え、グローバリズムの影響を受けている。競争が世界的になっており、給与が国際的な水準に収斂する可能性が強いのである。製造現場の給料が国際的な水準より一定額以上に高くなれば、工場は人件費の安い国に移転する。最近ではコンピュータソフト作成さえ、一部が中国に移転している。

    サービス産業では、中国からの修学生の姿が目立つ。東京の飲食店にはどこでも中国人が働いている。どうも地方は時給が安いせいか、地方にいた中国人が皆東京に集まって来ている印象がある。


    日本では、日本的経営というものが行き詰まってから、このような臨時雇用や不定期労働者が急増している。昔はこのような雇用形態での就労は、正社員になるまでの仮の仕事であり繋ぎであった。しかし今日では会社が正社員をどんどん減らしている。これでは一生涯臨時雇用や不定期労働者のままという人々が激増することは目に見えている。そこで日本的経営というものを取上げる。

    日本の生産現場は、少し前までは工場労働者と会社幹部の所得格差が諸外国に比べ小さかった。工場長も制服を着て、社員食堂で同じ食事をしていた。これを見て日本的経営を社会主義と非難する論調がある。しかし筆者は、これこそ日本人が歴史に学んだ知恵だったと考える。

    日本で資本主義がスタートしたのは明治の時代であった。当時は経営陣や会社の幹部と一般の社員との給与は大きな格差があった。たとえばボーナスは、現場の工員は日当の一週間分とか、職場の長でもせいぜい3週間分と言った状態であった。一方、工場長は一回のボーナスで家が2軒建ったという話もある。つまり給与面では当時の日本の方が本来の資本主義らしかったのである。

    このような会社経営が変わったのは、昭和恐慌時の労働争議の頃からである。経営者と労働者の一体的経営というものが、その後日本で定着した。しかし日本人にとってこの方がしっくりしていたからこそ、戦後もこのような労使関係というものがずっと続いたと筆者は考える。

    日本的経営は、長期の会社と従業員の安定した信頼関係があって成立つ。しかし今日の状況は、様変わりしている。発明特許の権利を主張する者や会社のデータを勝手に持出し金に変える者が続出している。逆に会社は従業員を簡単にリストラしたり、正社員を減らし、派遣社員を増やしている。日本的経営という言葉が段々死語になっている。ちなみに昭和恐慌時の労働争議で一番激しかったのは「鐘紡」である。その「カネボウ」は、今日ほぼ解体された。この出来事こそ日本的経営の行く末を暗示している。


  • 捨てたものではない日本的経営
    日本的経営は、これも日本人と日本社会のあり方というものと密接に関係している。ほとんどの日本人は日本という小さな島国に今後も定住することを当たり前と考え、何か運命共同体雰囲気の中で生活してきた。日本のような社会では、目的が何であれ、秩序を乱すことが重い罪になった。しかしこのような雰囲気が窮屈と感じる人もいる。

    意外と思われるかもしれないが、このような日本人の社会は効率的である。仕事の上でトラブルも日本的な解決が図られた。他人の集まりのような米国では、トラブルは司法の手に委ねられる。米国には90万人以上の弁護士がいる。米国民の年間の一人当りの訴訟費用はなんと1,000ドルと言われている。このような費用こそ無駄であり、このような金を裁判に使うのなら、飲み食いなどの交際費を使って日頃から良い人間関係を維持した方が得と考えるのが、これまでの日本人である。


    知識の共有化や伝承といったものも日本的である。会社内においては、先輩が後輩に無償で知識を授けるのが当然と考えられていた。自分達も先輩から色々なノウハウを得てきた。これも会社というものが運命共同体と感じていたからである。しかしこのようなことは日本以外では、必ずしも一般的ではない。

    以前04/8/30(第356号)「日本の「韓国化」」の中で、韓国が日本に「ウィン・ウィン」計画なるものを持ちかけて来ている話をした。これは韓国の2万人の新卒者(主に理工科系の大学卒業者)を日本の企業で2年間働かせるという壮大な構想である。驚くことにこの2年間の人件費は韓国側が持つというのだから、日本の企業にとっては一見うまい話である。「ウィン・ウィン」というのは、勝ち組と勝ち組、つまりどちらにとっても良い話という意味である。

    しかしこのうまい話には裏がありそうである。韓国社会では、自分の知識を他人に教えたがらない風潮があるようである。後輩に知識やノウハウを教えれば、自分の立場が危うくなるというのである。そこで韓国の経済界は、日本の会社で若手の技術者を育ててもらおうと考えたのである。たしかに今日の産業は知識やノウハウの固まりである。

    中国はもっと極端なようで、中国人は、欧米系や日系の会社に勤め一応の技術を身に付けると、さっさと会社を辞めて行く。また中国人同士が技術を教え合うということはあまりないと聞く。しかしそれでは中国の産業が、単純な組立工業以上に発展することが難しいような気がする。元々中国人や韓国人にとって重要な人間関係は一族である。それに対して少なくともこれまでは、日本人は共同体人間であり、会社人間であった。


    しかし構造改革運動の中で、株式の持合い、系列取引、終身雇用といった日本的経営の根幹みたいなものが否定されてきた。たしかにぬるま湯のような中で、日本の会社経営者も従業員も楽をしてきた。そこそこの利益を上げていたなら、株主もうるさいことは言わなかった。しかし株式の持合解消が進み、系列外取引が増え、臨時雇用の増大によって日本的経営も変わってきた。また日本的経営を放棄することによって、大企業の利益水準が上がっている。

    ところが企業利益が増えたこと以外、日本的経営の崩壊したことによるメリットは生まれていない。むしろ日本の名目GDPは小さくなっている。企業の利益が大きくなっているのに、全体の日本経済は縮小しているのである。むしろ筆者に言わせれば、日本の企業は日本的な経営を犠牲にして、一時的な利益を得ているのに過ぎない。


    しかし日本の現状はまだまだ手緩いという非難がある。「それでも日本は変われない」と言う本が米国人(E・リンカーン)によって書かれ、半年ほど前日経新聞で紹介されていた。著者はモンデール元駐日米大使の特別補佐官だった人物である。この著者はまるで日本が変わることが良いことと決めつけている。この人物に問いたい。日本が変わることが誰にとって都合が良いのであろうか。また彼の理想とする社会は一体どこにあるのだ。まさか米国が理想郷とは言わないであろうが。

    たしかに日本的経営が全壊したわけではなく、今日の状態は半壊の程度であろう。しかしそれでも日本社会は相当のダメージを受けている。日本社会は、企業が日本的経営を続けることを前提に成立っていた。企業は、人を採用し、教育し、福祉を肩代わり、問題があっても簡単には従業員を解雇しないという前提が崩れてきている。それによって社会のあらゆる所に歪みが生じている。


    筆者は、日本的経営が危機的な状態に置かれた一番の原因はグローバルリズムであると考える。貿易に関しては、グローバルリズムは日本にとって当初はメリットがあった。しかし経常収支の黒字が続き、円高という大きなデメリットを抱えることになった。どこまでも続く円高は、日本に終わりのない合理化を課す。資本のグローバルリズムは、日本の企業に利益優先主義を定着させ、株主の権利を過剰に認めた。

    このように行き過ぎたグローバルリズムが、むしろ日本人を不幸にさせているという事実に気づくべきである。かりにグローバルリズムが避けられないものとしても、日本にとってメリットがある範囲に止めておくことを考えるべきである。何がなんでもグローバルリズムが良いことで、日本のためにどんどんグローバルリズム化を進めるという考えは完全に間違っている。



来週の12月19日号が今年の最後であり、新年のスタートは1月9日を予定している。来週号のテーマは一年の締めくくりに相応しいものを考えている。

亀井静香勝手連の掲示板のアドレスが変更された。新しい掲示板には亀井静香勝手連のトップページから入ってもらいたい。亀井静香勝手連のアドレスは(亀井静香勝手連のホームページhttp://www.nb-j.co.jp/katteren)である。



05/12/5(第416号)「アメリカ人」
05/11/28(第415号)「遠ざかる豊かな社会」
05/11/21(第414号)「移民問題と市場経済」
05/11/14(第413号)「ブリエアの解放者たち」
05/11/7(第412号)「第三次小泉内閣の感想」
05/10/31(第411号)「現実経済の乗数値」
05/10/24(第410号)「公共投資に伴う誘発投資」
05/10/17(第409号)「誘発投資の拡張版」
05/10/10(第408号)「経済理論上の乗数」
05/10/3(第407号)「政治家達の沈黙」
05/9/26(第406号)「大谷氏への公開質問状」
05/9/19(第405号)「デマの検証」
05/9/13(第404号)「選挙結果の雑感」
05/8/29(第403号)「今回の総選挙を読む」
05/8/22(第402号)「今回の総選挙の沿革」
05/8/8(第401号)「中国経済の本当の脅威」
05/8/1(第400号)「中国の為替戦略」
05/7/25(第399号)「経済のグローバリズムの行末」
05/7/18(第398号)「経済のグローバリズムの本質」
05/7/11(第397号)「郵政法案と小泉政権の行方」
05/7/4(第396号)「経済のグローバリズムと競争の公正」
05/6/27(第395号)「日本語の研究」
05/6/20(第394号)「公的年金とセイニアーリッジ」
05/6/13(第393号)「日本国民全員がばん万歳の政策」
05/6/6(第392号)「公的年金とマクロ経済」
05/5/30(第391号)「マクロ経済政策で解決するもの」
05/5/23(第390号)「ヴァーチャルなもの(その2)」
05/5/16(第389号)「ヴァーチャルなもの(その1)」
05/5/9(第388号)「中国進出の主導者」
05/4/25(第387号)「鎖国主義への誘惑(その2)」
05/4/18(第386号)「鎖国主義への誘惑(その1)」
05/4/11(第385号)「ノストラダムスの大予言」
05/4/4(第384号)「法律と現実社会との間」
05/3/28(第383号)「株式に関する非常識」
05/3/21(第382号)「人とグローバリズム」
05/3/14(第381号)「資本とグローバリズム」
05/3/7(第380号)「貿易とグローバリズム」
05/2/28(第379号)「マスコミの暴走」
05/2/21(第378号)「マスコミが流す誤った概念」
05/2/14(第377号)「日本のマスコミの権力指向」
05/2/7(第376号)「日本のマスコミの体質」
05/1/31(第375号)「財政当局の変心」
05/1/24(第374号)「経済成長の条件(その2)」
05/1/17(第373号)「経済成長の条件(その1)」
05/1/10(第372号)「中国経済の実態」
04/12/13(第371号)「第一回財政研交流会」
04/12/6(第370号)「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)その3」
04/11/29(第369号)「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)その2」
04/11/22(第368号)「構造改革派の常套手段」
04/11/15(第367号)「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)その1」
04/11/8(第366号)「第二次南北戦争」
04/11/1(第365号)「妄言・虚言の正体」
04/10/25(第364号)「クライン博士を招いてのシンポジウム」
04/10/18(第363号)「日本経済のデフレ体質の分析(その3)」
04/10/11(第362号)「日本経済のデフレ体質の分析(その2)」
04/10/4(第361号)「日本経済のデフレ体質の分析(その1)」
04/9/27(第360号)「豊かな社会ーー競争と共生」
04/9/20(第359号)「レーガンの規制緩和の実態」
04/9/13(第358号)「今こそ大胆な政策転換を」
04/9/6(第357号)「虚言・妄言が跋扈する世の中」」
04/8/30(第356号)「日本の「韓国化」」
04/8/2(第355号)「日本の分割統治」
04/7/26(第354号)「自民党大敗北の要因分析」
04/7/19(第353号)「参院選で見たもの」
04/7/12(第352号)「日本のエネルギー自立政策」
04/7/5(第351号)「危うい石油の確保」
04/6/28(第350号)「テロと中東石油」
04/6/21(第349号)「対談の論点(再)」
04/6/14(第348号)「対談の論点」
04/6/7(第347号)「富の分配と公正」
04/5/31(第346号)「小泉首相訪朝の成果」
04/5/24(第345号)「日本に必要な財政赤字政策」
04/5/17(第344号)「土地売買の盲点」
04/5/10(第343号)「日本経済の体質と財政政策」
04/4/26(第342号)「凍り付くマネーサプライ」
04/4/19(第341号)「デフレ体質の日本経済」
04/4/12(第340号)「火星の土地」
04/4/5(第339号)「円高は構造的」
04/3/29(第338号)「規制緩和に飛びつく人々」
04/3/22(第337号)「矛盾の出発点」
04/3/15(第336号)「日経の貧乏神」
04/3/8(第335号)「実感なき経済成長」
04/3/1(第334号)「為替介入ではなく財政支出を」
04/2/23(第333号)「為替介入への道」
04/2/16(第332号)「為替介入資金の働き(その2)」
04/2/9(第331号)「為替介入資金の働き(その1)」
04/2/2(第330号)「為替介入政策の限界」
04/1/26(第329号)「今日の政治課題」
04/1/19(第328号)「今年の政局の課題」
04/1/12(第327号)「今年の日本の景気」
03/12/15(第326号)「日本の公的年金」
03/12/8(第325号)「足利銀行の破綻処理」
03/12/1(第324号)「日本経済を支えているもの」
03/11/24(第323号)「総選挙結果から見えるもの」
03/11/17(第322号)「総選挙結果の分析」
03/11/10(第321号)「総選挙の結果他」
03/11/3(第320号)「総選挙の予測」
03/10/27(第319号)「動態的会計による企業価値算定」
03/10/20(第318号)「道路公団、財務諸表の怪」
03/10/13(第317号)「藤井総裁解任劇」
03/10/6(第316号)「総裁選と総選挙」
03/9/29(第315号)「総裁選の総括」
03/9/22(第314号)「ドキュメンタリー総裁選」
03/9/15(第313号)「レポート総裁選・・その2」
03/9/8(第312号)「レポート総裁選」
03/9/1(第311号)「混迷の終始符」
03/8/25(第310号)「急がば回れ・・再び」
03/8/18(第309号)「自民党の総裁選に向けて」
03/8/4(第308号)「日本の実稼働率」
03/7/28(第307号)「設備投資の実態」
03/7/21(第306号)「企業経営と創造的破壊」
03/7/14(第305号)「頭が破壊されている人々」
03/7/7(第304号)「頭が混乱している構造改革派」
03/6/30(第303号)「経済の循環(その2)」
03/6/23(第302号)「経済の循環(その1)」
03/6/16(第301号)「経済政策の混乱」
03/6/9(第300号)「りそな銀行の件」
03/6/2(第299号)「規制緩和と日本経済」
03/5/26(第298号)「経済学と経営学」
03/5/19(第297号)「政府紙幣発行の認知度」
03/5/12(第296号)「滝田洋一氏への反論」
03/5/5(第295号)「政府紙幣発行政策の誤解」
03/4/21(第294号)「逆噴射の財政政策」
03/4/14(第293号)「危機管理下の経済政策」
03/4/7(第292号)「国債の管理政策」
03/3/31(第291号)「経済再生政策提言フォーラム」
03/3/24(第290号)「日本の有名経済学者達」
03/3/17(第289号)「波乱の株式市場」
03/3/10(第288号)「政府貨幣の理解」
03/3/3(第287号)「軽視される高橋是清の偉業」
03/2/24(第286号)「日本の清貧の思想」
03/2/17(第285号)「日本のデフレの原点」
03/2/10(第284号)「小泉首相の「もっと重要なこと」」
03/2/3(第283号)「スローパニック経済」
03/1/27(第282号)「所得を生むマネーサプライ」
03/1/20(第281号)「マネーサプライ政策の限界」
03/1/13(第280号)「データに基づく経済論」
02年のバックナンバー

01年のバックナンバー

00年のバックナンバー

99年のバックナンバー

98年のバックナンバー

97年のバックナンバー

日頃忙しいビジネスマンへのオンラインマガジン