- 「現実の為替レート」と「購買力平価」
日本の物価は高いと言う話はよく聞く。実際、発展途上国や中国(中国の物価については、別次元でとらえる必要があり、後日触れることにする)と比較した場合を別にしても、日本の物価は先進国の中では高い。このことはしばしば問題になる。ところで物価の高いか安いかを検討する場合、個別の物価で捉えると誤解が生じる。国によって相対価格が異なる場合が当然あるからである。ある国では、牛肉が豚肉より高いが、別の国では反対と言った具合である。
しかし今日のように貿易の自由化がなされている場合は、少なくともこのような「物」の相対価格は、是正される方向に動くはずであり、相対価格の違いは一定の範囲に収まる。さらに人の移動が自由になれば、サービスの相対価格も一定の範囲に収斂するものと考えられる(しかし人の移動が自由になると言うことは難しい。実際、世界の流れは逆の方向に動いている)。この相対価格については、別の機会に再び取上げることにする。
筆者が今週号で取上げるのは、このような相対価格ではなく、絶対的な価格、つまり物価全体の水準の国際比較である。つまり物価全体で、日本は高いか安いかが問題である。ところで物価は直接的に比較はできない。為替が各国で異なるからである。つまりそこで問題になってくるのが、為替レートである。人々は、今日の円の為替レートで換算して、日本と諸外国の物価を比べているのである。
各国の為替水準は、日々変動している。そして各国の物価水準を反映した為替レートを「購買力平価」と呼ぶ。現実の日本の円は124円くらいであるが、「購買力平価」は150円から160円くらいと考えられる。つまり日本の円の価値は、実際に決済さているより2〜3割少ないのである。よく日本の物価が高い安いが問題になり、どうしたら日本の物価が安くなるかが問題なる。しかし筆者は、全く違う発想で物価を考える。どうして実際の円レートが、著しく「購買力平価」からかけ離れているかを問題と考えるのである。日本の円の為替レートは「購買力平価」よりずっと円高の水準で推移している。これはかなり以前から続いている。
先進国の為替はほぼその国の「購買力平価」に近い水準で推移している。ところが日本だけが、為替が「購買力平価」より飛び抜けて高い水準で推移している。つまり日本の物価が何故先進国の中で高くなるのかを考えるには、なぜ「円」だけが「購買力平価」からかけ離れた高い水準で推移しているかを考える必要がある。
「購買力平価」と現実の為替レートの間に大きな差異が生じている原因については、納得がいく説明がされていない。よくある説明は「日本は競争力のある輸出企業と効率の悪い国内向産業があり、後者の存在が日本の物価高の原因」と言うものである。そしてこのような考えの人々は、国内の規制緩和を行い、日本の物価を引下げ、「購買力平価」が実際の為替レートに近付けることを主張する。実際、経済学者やエコノミストのほとんどが、このような考えを持っているのである。
しかしそのような単純な考えで本当に良いのかと言うのが筆者の意見である。このような発想は極めて危険であり、このような考えで経済政策を行うのなら、日本経済は泥沼にはまることになる。長く経済の混迷から抜け出せないのも、政治家や経済学者などがこのような間違った考えに縛られているからである。
国内に非効率的な分野を抱えているのは、どの国にも共通している。たとえば米国には100万人くらいの高給取りの弁護士がいる。この米国のような訴訟社会が効率的とは思われない。また大きな軍隊を始め、米国の公務員の就労者に占める比率は日本よりずっと大きい。また公務員とは別に、色々なNPOがありこれに携わる人々の数も膨大である。実際、米国の場合、第二次産業に携わる人々の数は少なく、第三次産業の就労比率が極めて大きい。
第二次産業は技術進歩が生まれやすいが、この第三次産業と言うのは、なかなか効率化が難しい分野である。また米国同様、高福祉社会である欧州も国内には非効率的な分野を抱えているのが現実である。そして欧米各国が、自国の非効率的な産業分野を効率化しているから、「現実の為替レート」が「購買力平価」にほぼ等しい水準で推移しているのではない。日本も昔(貿易収支が赤字の時代)は、むしろ「現実の為替レート」より「購買力平価」の方が高く感じたものである。つまり米国の物価が高く感じられた時代があったのである。
筆者は、「購買力平価」と現実の為替レートの差異が大きい原因を、日本経済が外需依存型であるからと理解している。慢性的に内需が不足する日本では、企業はどうしても輸出に頼ることになる。このためどうしても、収支の決済で決まる為替レートが、実際の使いでである「購買力平価」より高くなるのである。さらに日本の場合、両者の乖離を生む要素が新たに生まれており、問題が複雑化している。これについては来週号で取上げる。
日本の経常収支が大きく黒字ため、為替は円高になる。そしてこの円高を克服するため、輸出企業は合理化や技術開発に努力し、競争力を回復する。たしかに輸出企業などの製造業、つまり第二次産業は技術進歩が頻繁に起り、合理化が進みやすい分野である。実際、プラザ合意後、急激な円高にみまわれ、各企業や各産業は合理化を進め、この円高を克服し、国際競争力を維持してきた。しかし日本が頑張れば頑張るほど、現実の為替はさらに円高になり、「購買力平価」との差が埋まらないと言うのが現実である。
一方、人間が主体である第三次産業では技術の進歩とか、効率性の追求と言うのは難しい。技術進歩によって、床屋の頭をかる人数が増えたと聞いたことがない。また合理化によって、学校の先生が教えられる生徒の数が増えることもない。せいぜいコンピュータの導入で、銀行の窓口の銀行員の数が減ったくらいである。したがって日本の経済学者やエコノミストの言っていることは、円高が進む度合に応じて、人々の給料を下げろと主張していることになる。もし賃下げがいやなら、医者は手術を行う患者の数を増やせと言っているのと同じである。
今日「現実の円の為替レート」と「円の購買力平価」に大きな乖離が生じている。このため日本は競争力を失いつつあると言うのが世間の認識である。そして今日小泉政権や多くの経済学者やエコノミスト、さらには日経新聞や改革派と称している若手政治家が主張し、行おうとしていることは、国内の効率を上げ、「円の購買力平価」を「現実の円の為替レート」に近付けることである。まことに不毛な試みである。もっとも彼等の頭の中は混乱しており、このことを本当に認識しているかどうか不明であるが、あえて筆者が解説すればこう言うことになる。そしてこの効率化のための彼等が主張する政策が「構造改革」とか「規制緩和」である。
- 本当の解決方法
前述したように、サービス業を中心とした第三次産業における合理化は難しい。「牛丼の吉野屋」は店員が牛丼を運ぶ数を増やして、値下げを実現した。しかしこれも限度がある。生産性の向上の種が無限にある製造業とは違う。第三次産業のほとんどは、製造業を中心とした第二次産業と同じペースで合理化ができるはずがない。つまり改革派と言われている人々が行おうとしていることは、所詮無理である。またもしかりにそれが実現としても、たいした効率化を生まない。そしてこれに異議を唱える人々を単純に「抵抗勢力」と称して非難している。このような考えは、問題の本質を見誤らせることになる。
実際、一斉に「規制緩和」を進めた場合、実際に「規制緩和」の効果が及ぶのは、参入障壁が低く、政治力のない業界だけである。典型はタクシー業界などである。一方、どれだけ「規制緩和」と叫ばれても、実は効果が浸透しない業界が多い。緩和される見込みがない法律で参入が規制されている業界や、法律で守られていなくとも既に寡占体制が完成しており、後発の参入が無理な業界がある。新聞社やテレビ局などである。医師や弁護士、公務員もこれに近い。つまり単純に「規制緩和」を進めることは、前者と後者の所得格差をさらに大きくするだけで終わるのである。先日、テレビで元外交官が「日本のタクシーは高い。米国のようにタクシー運転手のために移民を認めろ」と叫んでいた。これは、自分達だけは、競争にさらされる可能性がない安全地帯にいる人々の典型な意見である。
日本の第二次産業は、ずっと続く円高傾向のため合理化が進められた。そして生産現場の労働者の数は以前よりずっと少なくなった。そしてこの余った労働力は建設業を始めとした第三次産業に流れた。この傾向は今日も続いている。つまり第三次産業が失業の受け皿となっていたのである。バブル期前後に建設労働者が増えたが、これも建設業界が社会のセーフティネットとして機能したからである。ところで建設業に携わった人々も、必ずしも好き好んでこの業界に来た人ばかりではない。むしろこのような業界は「3K職場」として、人々はむしろ敬遠していた。つまりしょうがいので、建設労働者になった人も多いはずである。
無駄な高速道路を造るなと改革派の人々は主張しているが、これで困るのは道路公団の職員ではなく、実際に工事を行っている業者や労働者である。改革派の人々は「セーフティネット」は必要と、常に口先では「きれいごと」を言っているが、彼等の実際やっていることは、このセーフティネットを壊すことである。
ここ数年、日本は改革ブームであるが、成果が上がっていないと言われている。小泉首相も「サッチャーの改革も5年くらいかかった」と強弁している。しかし本誌で取上げたように、日本ではサッチャーが行った改革は誤解されている。また経済が悪くなった原因が日本と英国では全く異なる。このような日本で、英国と同じような政策を行っても効果はないどころか、デフレ経済が一層深刻になるだけである。さらに英国を始め、フランスや米国の経済が持直したのは、ポンドや仏フラン、そして米ドルが大幅に下落してからである。
またかりに多くの人々の犠牲の上に第三次産業の合理化が少し進み、「円の購買力平価」が多少円高になって物価が少し下がっても、実際の円レートが少し円高になれば、まさに「元の木阿弥」である。社会の効率化が進めば、それだけ円も一段と強くなる可能性が強いのである。
実は、これを解決する方法が一つだけある。国内の労働者の給料や商品の価格を米ドル建て、あるいは米ドルに完全にリンクさせることである。これをやれば、「現実の円の為替レート」と「円の購買力平価」が乖離することはない。しかしこれは、円高になれば人々の給料が変動することを意味する。つまり円の価値が倍になれば、給料を半分にすることになる。しかしこのようなことは実現不可能と誰もが思うはずである。しかしこのような実現不可能なことを、「やらねばならない」と言っているのが改革派である。そして「改革」とか言われていることが中途半端に行われているのが今日である。
このように全く意味がなく、不毛な構造改革運動がこの先何年も続けば、その間に日本経済はボロボロになり、社会も荒廃するはずである。特に競争的な産業が配置されている地方は、既にこの徴候がはっきりと現れている。ところで誤解してもらっては困るのは、筆者は、サ−ビス業を始めとした第三次産業の効率化や合理化に反対しているのではない。第三次産業でも競争が行われ、提供されるサービスの質が向上することに賛成である。しかしこれによって今日日本経済が抱えている大問題である、デフレの進行や銀行の不良債権問題が解決するとは絶対に思わない。むしろ問題は、このような考えが蔓延することによって、本当の解決からどんどん遠ざかることである。
今日のデフレ経済から脱却する方策は、「円の購買力平価」を「現実の円の為替レート」に近付ける改革派の政策ではない。全く逆である。「現実の円の為替レート」の方を「円の購買力平価」に近付ける政策、つまり円安政策こそが、デフレ経済を克服するものである。ところが今日は、資金流出や為替介入しか、この円高を阻止する方法がない(金利は既に下がるところまで下がっている)。しかしこのような資金の流出は、将来の円高の原因になるのである。本来の円安政策は、本誌がずっと主張しているような大きな需要創出政策である。
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